遭難事件と、人命救助と、自業自得論、自己責任論、思想、道徳。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140217-00000868-yom-soci
不明の邦人女性ダイバー、5人救助…バリ沖

いやあ良かったですねー!
あと二人も見つかりますように!


ところで旦那にこの話題を振ったら「遊びに行って遭難したんでしょ?」


ん!?

んん!?


ああ、そうかあ。
そういう感じかあ。
2ちゃんでどんな論調で語られてるのか知らんけど、そういう感じの論調(遊びに行って遭難して多くの人に迷惑かけた遭難者が悪い)もあるんだろうなあ。

イラク人質バッシング後遺症とでも言いましょうか。

遭難事件やらなんやらがあったら、とりあえずまず真っ先に被害者の落ち度を探す。

遭難事件で捜索されること=迷惑をかけること、お金もかかるし人手もかかるし労力もかかるし、大変なご迷惑をかけること。

遭難すること。それはとんでもない悪事である。

的な。

いや別に否定しません。

仕方ないよな、イラク人質バッシング事件以降、そういう思考回路が繋がってしまった
この思考回路が一度繋がってしまったら、なかなか修正は利かないものでしょう。
人の脳味噌ってそういうものだよね。
それが「思想」というものなのだ。

今後もずっと遭難事件が起きる度に、落ち度を詮索せずにいられない、という一種の「癖」は、治らない人はもう治らないのだろうと思う。

でもなあ。
遭難救助ってなに。

一人の人間を助けた大勢の人々は、一人の人命が救われたその時、憮然として捜索にかかった費用を鼻先に突きつけるのだろうか。

実際は、憮然とするどころかむしろ歓喜するのではないかしら?
ある救助者は涙すら流し、自分達が一人の人を救ったことを、心の底から感動して喜ぶのではないかしら?
抱き合って泣いて笑って、一人の命が救われたことを、みなが喜ぶのでは、ないかしら。

それが救助というものの現場なのではないだろうか。

いや別に自業自得論、自己責任論、人に迷惑をかけてはいけないですよ論は否定しない。
議論とかめんどくさいことするつもりない。

そもそもこの問題は既に「思想」であるので議論にならないのだ。

人を助けること。
人に助けられること。

道徳とは何か。

どこに道徳の比重を置くか。


たった一人の遭難者を何千人という大勢が助ける場面にて、まず遭難者の人命を重視する人。

たった一人の遭難者を何千人という大勢が助ける場面にて、まず遭難者の落ち度を重視する人。

これはどちらが正しいという答えはない。思想の対立なのだ。


人に助けられること。
 ・・・迷惑をかけること。

人を助けること。
 ・・・迷惑をかけられること?


目の前で死にかけている赤の他人を「助けたい」と思う気持ちが、本能のように人には備わっている。

その赤の他人は落ち度どころかもしかしたらとんでもない凶悪犯かもしれないのだ。

それでも人はなぜか死にかけている赤の他人を「助けたい」と本能のように思う。

遭難救助の根底にあるものは、ただ「助けたい」と感じる、人としての本能なのだと思う。



ああそうか。
イラク人質バッシングから十年間。
あのバッシングの最中の私の強烈なもやもや。
十年間もやもやし続けていた。

いまやっと一つの答えを見つけた。

公費(我々の税金)を使っての人命救助とは何か。

われわれが、助けたいから、助けるのだ。

その他人がいい人か悪い人か(落ち度があるか否か)は、今まさに危機にいる目の前の他人を「助けたい」という気持ちには関係がない。
目の前の川で誰かが溺れていたとき、「この溺れている人がいい人か悪い人か判明してから、助けるか助けないか決めよう」なんて悠長なことは、誰も考えないのだから。


それこそが人としての自然な感情なんだ。
(と、わたしは、思う。これがわたしの思想だから。嫌々ながら迷惑がりながらめんどくさがって助けて、鼻先に捜索費用を突きつけることこそ自然という思想の持ち主を私は否定しない)


●追記●
あらためて読むと、なんか真意の伝わりにくい分かりにくい記事だったかなあ、と思って、書き足し。

まず私は、世の中には「やらかす人」っていうのは絶対にいる、と思っています。非常に重大な<自己責任>という瑕疵を負っている人、と言い換えてもいいです。

「やらかす人」の出現を阻止することはできない。

「やらかす人」がいるに決まってるというのは世の中の大前提であって、その大前提の上に「やらかす人をも含めて公費で助ける」というシステムがある。
タバコの不始末という重大な自己責任(瑕疵、「やらかし」)から生じた火事は、公費によって運営されている消防によって処理される。

同時に山岳保険や海外旅行保険などの商品も成立している。

それで世の中の秩序が成立していると思います。

自己責任論の行き着く先の究極って、

「まずこの人に落ち度があるかないか確かめてから助けることにしましょうね」

ということになる気がします。
もちろん誰もそんなことは言っていませんが、その思想を突き詰めた先にある究極のものとして。(決してそんな社会が訪れるわけないと分かっていますが)

それって実は、人として不自然なんじゃないかなあと

だって自殺未遂者がいたら助けちゃうじゃない、っていう。

自分勝手に死のうとしているアホな人なのに、人は助けちゃうじゃない?

自殺未遂者なんて、究極の「やらかす人」でしょう。かなり重大な<自己責任>を負っている、重大瑕疵物件です。

でも、助けちゃうよね?

「助けるという行為」と「助けられる側の落ち度(瑕疵、やらかし、自己責任)」って実はあんまり関係ない。

死ぬかもしれない他人がいたら、助けようとする。
それが「普通」で「自然」って思います。

そんな「普通」で「自然」な行為があたかも間違っていることのように声高に言いまくる

「自己責任!自業自得!税金の無駄遣い!」

論法には違和感感じます。

もちろん、この論法は「助けるという行為」を非難はしていませんし、非難の対象はあくまで「やらかす人」ですが。

でももし、実際の救助現場にて、救助活動に参加もしない野次馬が、

「おいそこの溺れてる奴!お前こんな増水中の川に近づいたお前が悪いんだからな!お前の自己責任だからな!」

って叫んでいたら、KYですよね。

私はそういうKYさを感じてしまいます、遭難者の落ち度叩きには。

また、この落ち度論の問題点は、なにを落ち度とするのか、というのは実は結構あいまいという点にあると思います。

「政情不安地帯に遊びで出入りする人」という瑕疵と、「政情不安地帯の真実を世に広めたいから出入りする戦場カメラマン」という瑕疵は同じなのだろうか?とか。
「同じ」と言う人も「違う」と言う人もいるだろう。
たとえばイラクの人質バッシング問題では、国内の論調と海外の論調はまっぷたつに割れた
なぜ割れるかというと、これが思想の問題になってしまうから。

各々の持つ道徳観、思想によってどうせ割れてしまう「やらかし認定」ってあんまり重要ではないような気がする。

あと自己責任論の行き着く先の究極として、「消防や自衛隊などによる公費での救助システムを全て廃止する」という選択がある。
もしそういう世の中になったら、まあ民営のレスキュー隊というものが登場し、完全個人負担でそのレスキュー会社に救助をお願いする、みたいなシステムになるのだろうな。
そしてこのレスキュー会社と連結した、民間の保険会社というものも登場する。
生れ落ちたその瞬間から、民間の救助保険会社&民間のレスキュー会社のお世話になるのが当たり前、みたいになるのだろう。

ちなみにこのシステムだと、保険に入る経済的余裕のある人、いわば「自己責任という瑕疵を経済的自己負担によってちゃらにできる人」のみが救われる世の中になります。

そんな世の中で果たして「国家」は成り立つのかなあ。すごくアナーキーな無秩序社会になりそうな気がするなあ。
そもそも国家の存在意義ってなんだろう?

それにこの会社は、消防や自衛隊の完全なる代用にはなれないでしょう。だって消防や自衛隊には社会の秩序を保つ、という目的があるけれど、会社の至上目的はあくまで利益追求ですからね。
保険会社によって自己責任という瑕疵は徹底的にチェックされ、瑕疵が保険会社の許容範囲内であると判明した時にだけ保険金が下りるとかね。
自己責任追求至上主義的な<道徳的観点>から見れば、これこそが「理想社会」かもしれませんが。
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